日本経済新聞記者 渡辺正行

 100年に一度の不況と言われながら、街には以前と変わらないように人が行きかう。生活に不安を抱えて弱々しくはあるのだが、豊かさ、正確に言えば過去に経験した豊かさの亡霊がいまだに漂っていて人々の意識を支配している。しっかり前を向いて歩いているつもりで、ふと下を見ると自分の足が消えている。もう少し遠くから見れば、人間とは、歴史という空気の層を過ぎていく風なのかもしれない。地上にへばりつこうとしながら、少しずつ宇宙へ吸い出されていく大気の構成要素なのかもしれない。あてどない社会に小さな不安の叫びを上げているという舞台だ。

 主人公の女性は派遣社員で、ある香料メーカーの研究所で働いている。派遣社員だから、短期間で立ち去っていくのだろうし、経済的にはそれほど恵まれていないのだろう。本当にやりたいことが別にあるのかもしれないし、ないのかもしれない。試験管を手にした研究員も、どんな香料を開発しようとしているのかはっきりしない。ただ、自然界に豊かさを与えている香りが、わずかな数の分子で構成されているという秘密を手にしている。派遣社員は化粧品や食品で消費者が本物の香りだと信じているものが、実は試験管の産物であるという裏側を垣間見る。

 舞台上には液晶テレビが並んでいる。試験管が映っていたかと思えば、ノイズだらけの乱れた画像に変わってしまう。香りがフックとなって、人の記憶のなかから、様々なイメージを引き出している。もっとも、「時をかける少女」のように手触りのあるロマンスが香りを巡って展開されるわけではない。香りが時を超えて呼び覚ますのは、もっとあいまいな原風景だ。

 液晶テレビは仮想空間との出入り口だ。遠くで起きた現実、過去の出来事、スタジオで撮影されたドラマ。どれが真実で、どれが真実でないのか分からない。そもそも真実とは何か。もっとも現実世界と仮想世界との間に投げ出された人間の姿を描いてはいるが、「ノーライフキング」のように主人公がうろたえ、仮想世界に強い抵抗を試みているわけではない。

 私たちは世界を現実と仮想の二つに分けて考えることに慣れている。しかし、その二つに加えて脳の中という第三の世界を考えてもいいのではないか。仮想の世界はインターネットの発達で、主体となる人間を置き去りにして増殖し始めた。情報をどう遮断して、どう整理するかが、今やビジネスパーソンの最大の課題だ。「枝わかれの青い庭で」は、現実と仮想の世界を行き来する、脳という意識の構造に踏み込もうとする。脳を巡る学者らのパネルディスカッションの様子も舞台に挿入され、具体的な提案として観客に示されている。

 脳こうそくの予兆として、子供時代など過去の記憶がふとよみがえってくるという症状があるらしい。小さな血栓で、脳の一部が壊れ始める。失われた機能を補うために、それまで休止状態にあった周囲の脳組織が活性化して、それに伴っていて埋もれていた記憶が掘り起こされる。意識というと何か神の領域のように思いがちだが、実は脳の物理的な現象、化学的な作用で成り立つ。どんな香りも人工的に合成できるのと同じだ。

 脳が脳髄、脳幹、間脳、大脳と、人間の進化をたどるように発達してきたことはよく知られている。一人の人間の記憶量はそれほど多くないから、脳の一部を使って、ちょうどフロッピーディスクにセクターに切って収録される。仮想世界ではインターネットのサーバーなどが人間と離れた所で、カメラで撮影された映像を同様にして収録している。脳にしても、インターネットにしても、膨大な記憶データが常に露出しているわけではない。何かをフックにして引き出される。

 私の携帯電話を裏返すとCDMAという小さな文字が印刷してある。CDMAとは多数の電波を送信するための一つの方法だ。データを広い電波帯域に薄く重ね合わせて、パイのようにして送る。普通に受信すると雑音にしか聞こえないが、特殊なコード(記号)をフックとして層の中から1枚だけはがしてくると、元の音声やデータが再現できる。「枝わかれの青い庭で」では、そのフックが香りであったり、言葉であったりする。

 現実、仮想、そして脳という三つ世界を私たちは巡り歩いている。歩くという確かな感触があるのは現実世界だけだから、雲のように漂っていると表現した方が的確かもしれない。はやりの言葉を使うとクラウドだ。

 この漂う雲はどこへ行くのか。水蒸気の粒のように飛び散ってしまいそうな主人公が立ち戻る場所、原風景がウクバールなのだろう。ボルヘスの作品に出てくるようだが、どのような土地なのか一般にはなじみがない。脚本をまとめた平松れい子さんの原風景が問われるところだが、キーワードとして提示したのは外国人作家の作品だ。ただ、舞台から推測すると、平松さんの原風景とは白い壁のリビング、大きなテレビとダイニングテーブルのある家庭。大都市郊外の静かな街で子供時代を過ごしたのかもしれない。原風景を語ることで、昭和レトロに陥るのを避けたいという配慮があったのかもしれない。

 無機質で記号的な舞台。重層化するイメージ。才女ブーム時代の如月小春とか、前川麻子とか、似ている点を指摘することも可能だろう。しかし、「枝わかれの庭で」には、バブルが膨らんでいく時代の舞台に見られた饒舌(じょうぜつ)さはない。硬質な弱々しさとでも表現するような独自のイメージがある。

 硬質さを支えているのは役者の存在感だ。こうした脚本は役者が消化できないと、理屈っぽさが鼻に付く舞台になりがちだが、役者の語り口に無理がなく、意識を共有しながら自分なりの演技を楽しんでいる。

この作品は脳の働きを素材に盛り込むうえで、障害者というキーワードがある。しかし、舞台を見終わってみると、役者が障害を演じている部分がある点にしばらく気が付かなかった。障害者、健常者という二分法が役者の内部で破られている。

この演劇カンパニーがテーマ、素材として語っていけるものはまだ多い。半年に一度は公演してほしい。

2009年4月